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2005年 11月 04日
バートランド・ラッセルは、1967年のBBCクリスマス放送の最後にこう発言しています。
「もし人々が皆その気になれば、人類の前には、幸福と知識と知恵の不断の進歩が横たわっている。それなのに争いを忘れることができないという理由で、死を選ぼうとするのか。私は一個の人間として(as a human being)、人間に向かって訴える。人間性を想い出しなさい。それ以外を忘れなさい。それができれば、新しいパラダイスヘの道が開ける。さもなければ、人類の絶滅しかないだろう。 冷戦構造が崩れ、単純な、民主国家対共産国家の対峙という構図が崩れた後、予想通りのナショナリズムの高揚が起こり、世界は複雑になっているかのように思えます。敵・味方、それのレッテル張りがかまびすしく、イラク戦争に対する賛否もある一種の踏み絵となっているようです。 しかし、元々の民主国家対共産国家の対峙という構図も、現在のテロ支援国家、或いはイスラム原理主義国家、さらに或いは、中華人民共和国・韓国のような反日国家対日本というような単純な図式の色分けができるか?というとできません。 人々は、単純な価値観、白か黒かに流されがちですが、それは危ういものがあります。バートランド・ラッセルが言う、 「人間性を想い出しなさい。それ以外を忘れなさい。それができれば、新しいパラダイスヘの道が開ける。さもなければ、人類の絶滅しかないだろう。」 という原理原則を再確認し、この原理原則に従って、ある時は是を唱え、ある時は非を唱える姿勢が大事なのだろうと思います。相手が常に是でも非でもない、己も常に是でも非でもない、という繰り返される検証を常に行う姿勢を持たなければいけないのでしょう。 現在、原水爆という大量破壊兵器による相互破壊の危機は過ぎたように思えます。しかし、ドラスチックな危機よりも、現在の徐々に進行する環境危機やナショナリズムの狂気の方が、突然の絶滅よりも恐ろしいのかもしれません。 ラッセルと、アインシュタインが1955年に提示した宣言を現在に当てはめて再度読んでみるのも大事なことでしょう。 ラッセル・アインシュタイン宣言-1955年7月9日 ロンドンにおいて #
by franklloyd
| 2005-11-04 11:55
| R・E宣言と憲法9条
2005年 11月 02日
今年の4月のニュースですが、国連安保理の常任理事国入りを目指す日本・ドイツ・インド・ブラジルの動きにつれて、韓国と中国のトップが日本以外の国家を訪問して、「それにしても日本は。。。」的な発言を繰り返して日本のイメージダウンをはかる戦略をとっていたことを覚えている方もおられると思います。
常任理事国入り 問われる「敗戦国」の作法 「日本と同じ敗戦国ドイツ」 この言葉をほとんどの日本人でさえも納得している。朝日新聞はもちろんこう言いたいのでしょう。中国・韓国と同じスタンスで考えているのでしょう。 しかし、 ドイツは日本と同じ(条件の)敗戦国なのでしょうか? さて、 ドイツの降伏時の状態はどうであったでしょうか? ドイツの降伏前、まだヒトラーが生きていた頃、ヒトラーはあくまでドイツの徹底抗戦を叫び、降伏を断固として拒否していました。 「ドイツ国民がいつかもう強くもなく、自らの生存のために血を流すほど献身的でもなくなれば、滅びてもっと強い国に抹殺されるがよい」 1945年以前にも連合国に対してなんとか良い条件で降伏をするために、元ライプチヒ市長のゴードラーや砂漠の狐、ロンメル将軍などがヒトラーの暗殺計画をたてましたがいずれも成功しませんでした。 1945年5月には、ドイツのほぼ全領土はアメリカ軍、ソ連軍をはじめとする連合軍に蹂躙されていました。政府のトップであるヒトラー総統は自殺、政府高官・要人のほとんどは自殺、逃亡、または捕虜となり、まったくの無政府状態に陥ったのです。ドイツの降伏前には、ナチスドイツ政府は影も形もなくなっていたのです。 その直後、海軍のデーニッツ提督(ナチ党ではない旧ドイツ帝国軍人)がヒットラー総統の後継者として、降伏条件に署名しましたが、これはドイツ軍に関する降伏のみ、ドイツ国家としての降伏ではありませんでした。 さらに、デーニッツ提督は降伏直後、逮捕され、それ以後、ドイツ政府の後継者なるものは存在しなかったのです。 政府も完全に消滅し、軍も崩壊、なんらかの降伏条件が連合国から提示されて、それにドイツ政府が調印、敗戦となったわけではありません。戦後のニュールンベルグ裁判では、ゲーリング、ローゼンベルグ、リッペントロップ、ヘス、カイテル、カルテンプルンナーらのナチス指導者達はヒトラーにすべての罪をかぶせようとしました。後にイスラエルの法廷で裁かれたアイヒマンも「総統の命令に従っただけ」と言っています。全ては絶対悪であるヒトラーが悪いということを彼らは主張したのです。 ドイツの敗戦は、政府の崩壊、軍の崩壊、全ドイツ国土の連合軍による占領という状態における敗戦です。日本の政府、及び当時の主権者である天皇がポツダム宣言を受託し、無条件降伏をしたという敗戦とはまったく様相を異にしているということです。 ウィキペディア-無条件降伏 同じ無条件降伏ですが、内容の違う無条件降伏です。 ですので、その後の国家のあり方、憲法の制定は日本とドイツでは違っています。 つまり、 第2次世界大戦後のドイツの場合は、完全な無条件降伏であったといわれる。国際法では無条件降伏などで国家が機能を果たしていないとき、または事実上無政府状態であるときは、憲法などの国家の根幹に関わる制度の変更を行ってはならないと理解されている。このため、ドイツは、これを理由に連合国に対して急進的な憲法の改変を拒否し、その後にドイツ共和国基本法(憲法、制定当初は西ドイツのみで適用)を制定している。 ということで、ドイツの場合には、降伏時には、その降伏の条件を検討し受諾する政府もなければ軍も存在していなかったということです。日本の場合は無条件降伏とは言え、まったくの完全な無条件ではありません。政府が存在し、軍も規律を保っていたのですから、条件のなにがしかはありました。 しかし、 ナチスドイツの場合は、降伏後連合軍と交渉する政府もなければ軍もない、まったくの無政府状態での完全無欠な無条件降伏だったと言うことです。 (続く) ラッセル・アインシュタイン宣言と憲法9条 その一から十六 #
by franklloyd
| 2005-11-02 21:06
| R・E宣言と憲法9条
2005年 11月 01日
図で見られるような、「集中」という何かがあって、それを「集中」することで、「集中」が大きくなり、「集中」したので、意識が集中なるものに飲み込まれる、なんて座禅の修行で考えていることは実際は起きません。
座禅の修行というのは型です。結跏趺坐というのをご存じですか?座禅で修行の際に組まされる座り方です。やられた事はありますか?おられるなら、あれは結構痛いものだというのがわかります。或いは、正座を考えてもいいかと思います。つまり、それらの姿勢を続けるだけで、痛い、という痛覚が生じます。 なんだか知りませんが、「集中」なる抽象概念を通して、無我の境地(つまり意識を狭め無意識を広げる)に至り、「悟り」なるものを会得させるそうですが、その前提条件として、正座なり結跏趺坐なりの姿勢が大事で、その姿勢を保ちながら(正しい姿勢で)無我の境地になり、煩悩・妄執を縮小させ、意識ののぼらせないようにして無意識の片隅においやり、そして悟りを得る。 悟りを得る前に、「シュウチュウ」する前に、痛みに「シュウチュウ」してしまって、「集中」にシュウチュウすることはできないですね。で、意識を縮小させる行為も、痛みが妨げます。悟りに至る姿勢を保つが故に、それが痛みを生じさせてシュウチュウを阻害する要因になる、なんて馬鹿げたことなんですね。 お釈迦様の像をそこここのお寺さんで見ますね?その座り方は結跏趺坐の姿勢のものもあります。しかめ面しく座っています。インドでそんな座り方をしているのがポピュラーと思われますか? まさかね。インドじゃそんな無理な座り方をするのは修行中(あくまで修行中、覚醒した、悟りを開いた人はしません)のバラモン(ブラフミンのカースト出身の仏教の僧を指す)が修行の一環として(一部として)座っている姿勢であって、いつもいつもあんな座り方ができるものではありません。だいたい、 「結跏趺坐」=「吉祥坐」=「降魔坐」 ということで、「吉祥」、「降魔」という呪術的目的を持った座り方ですね。 仏像の基本形 それよりも楽な、「善跏倚坐」「半跏倚坐」「輪王坐」「半跏趺坐」を取っている仏像も数多くあります。辛い姿勢の「結跏趺坐」=「吉祥坐」=「降魔坐」なんて、意外と少ない物です。インドなんかでは、「輪王坐」=立てヒザが多い。西欧人と同じで正座・結跏趺坐を出来る人は少ないのです。 まあ、シルクロードを伝わっていく内に、マゾが一人いて、それがマゾヒスティックな座り方が正しいとでも思いこんで、間違えて伝承したんでしょう。集中するのに、わざわざ辛い姿勢を取ったら、集中が妨げられるでしょうにねえ。 ですから、数十人のガキが、狭い教室で、背をまっすぐ伸ばして、先生の話を一心不乱に聞く、なんて状態は、ガキにロボトミー手術でも受けさせない限り不可能なんですよ。逆に、背をまっすぐ伸ばした姿勢で、先生の目を見つめている生徒は、心はどこかに行っていることが多い。 私はプレゼンテーションを日本人、中国人、西欧人相手に致しますが、長年やっていると、この背をまっすぐ伸ばしたキチンとした姿勢で、FRANK LLOYDの目を見つめている聴衆の方のほとんどが私の話など聞いていないことに気付きました。 彼らにとって大事なのは、私の話を真摯に聞いている姿勢を取り、私に失礼にならないように、そして、端から見て私の話を真面目に聞いている印象を受ける「姿勢」を保つ事なのです。私の話の内容など関係ないのですね。 むしろ、内容がわかって、「集中」して聞いている人は、他の人間が彼、彼女をどう見ようと関係なく、ウンウン頷いたり、前に乗り出したり、目をつぶり腕を組んで耳を澄ませていたりします。 本当に集中しているのであれば、姿勢なんか関係ないのですね。で、姿勢が関係なくなりますから、鼻水垂らしても関係なく集中してトランペットを吹く奏者のように、顔は弛緩し、口をおっぴろげ、髪の毛をかきむしったりする人間もおります。集中している人間は誰も、結跏趺坐で座っているような、背をまっすぐ伸ばして座っているような、マナーに合った姿勢など保てません。集中しているのですから。外聞は関係ないのです。 #
by franklloyd
| 2005-11-01 18:21
| Ρ★:。。。の心理学
2005年 11月 01日
FRANK LLOYD@Age 8のガッコのセンセを思い出して下さい。このセンセの考え方は、図にあるように、意識の周り(周りと言うより、2次元の図だとわかりにくいですが、意識の下(識域下)の領域に無意識が潜んでいて、そこによそ見をしたり、よその子に話しかけたり、マンガを読みたいと思ったりする煩悩・妄執が存在していると想像したのでしょうね。これを読んでいる皆さんの中でもこういうように思っている人もおられるかもしれません。しかし、こんな図で表される無意識というものも、煩悩も、妄執もありません。
仏教のサイトの中で以下のような記事を見つけました。 戦争にしろ、テロにしろ、最終的に決断し行動を起こしたのは、精神であって、精神的な世界の認識がゆがんでいるために、その行動自体もゆがんで来るという事です。ここで大事なのは、精神そのものを問題にするのではなく、そこに働く「認識」を問題にすることです。 ホントですか? 「本当の実在というものは我々の煩悩を取り去らないと見えてこない。」 「本当の実在は何であるかと言えば、空である、とこう言う訳です。」 本当ですか?ここで言っている空というのは、西欧の哲学・心理学伝来前の本来の仏教用語の「無意識」に当たるようですが、それが図のようになっているってこと? #
by franklloyd
| 2005-11-01 18:17
| Ρ★:。。。の心理学
2005年 11月 01日
明治維新以降、西欧文明の様々な学問が流入してまいりました。それら学問の英語・仏蘭西語、独逸語のなど言語の用語を翻訳するに当たり、翻訳者は悩んで造語をしたり致しました。物理学とか化学とか、まったく過去の日本語にない概念・物質の用語はこれを造語するか、類似の日本語をひっぱてくる他はありませんでした。しかし、ほとんどが造語。「量子」なんて過去の日本語にありませんでしたからね。
ところが、心理学とか哲学、これは中国渡来の類似の用語がたくさんありました。仏教用語もしかり。だから、こりゃあ便利だ!造語しなくて済む!と翻訳者は仏教用語などで、心理学とか哲学などの学問の英語・仏蘭西語、独逸語のなど言語の用語を翻訳したんですね。その中で、変な訳語もあります。 「無意識」 なんでしょうかね? むいしき【無意識】 (名・形動) ふむふむ。じゃあ、意識とはなんですかね? いしき【意識】(名) ふむふむ。(4)の意味にもあるように、元々は仏教用語を持ってきた、ということですね。では、英語で言えば、【意識】=【consciousness】はわかりました。じゃあ、この場合の哲学・心理学で言う意味の無意識は、【無】=【un-】だから、 【無意識】=【unconsciousness】 なのでしょうか?直訳すると。違いますね。日本語の辞典には、 unconsciousness と書いてありますが、【unconsciousness】というと、普通、医学用語になります。要するに、死んだか、植物人間か、【coma】=【昏睡】状態の事を言います。全然、心理学・哲学でいう【無意識】とは意味が違います。辞書で書いてあっても通じません。英語では、この場合の無意識を【unconsciousness】とは言わないようです。むしろ、この意味での用語では、 subconscious だったのではないでしょうか?元々原語では、【subconscious】=【潜在意識】という翻訳をしていたのに、仏教語でしか存在しない、そのまま訳すと【unconsciousness】になる用語もまた、【無意識】=【subconsciousness】としてしまって、あたかも【無意識】というものが西欧社会でも、哲学・心理学分野で認知されているように翻訳してしまったのかもしれません。 ですから、無意識ってのは、昏睡状態として私は扱いますが、どうも、巷(ちまた)では【意識の対極にある物】=【無意識】として取り扱っている節があります。で、無意識が何か人間を操作しているとか、わけのわからない話をしていますが、そんな存在しない物を私は論じる気にもなりません。だって、 【無意識】=【意識がない】=【人間として存在していない】 のですからね。 あるサイトではこんなことを言っています。 「無意識と武道」 なぁるほど。このあとフロイトなんぞを引用してもっともらしく述べていますが、これは、西欧心理学(それも初期フロイト学派)と仏教用語の混乱した使い方ですねえ。翻訳語に惑わされている典型です。 私は、 【意識】=【(顕在)意識】+【(潜在)意識≒いわゆる無意識】 として扱います。ただし、私が潜在意識と書かず、【無意識】と書いた場合は、今まで誤解され続けてきたありもしない状態の事を言っていると致します。 #
by franklloyd
| 2005-11-01 18:12
| Ρ★:。。。の心理学
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